40代サラリーマンの日記

わたくし、40代のサラリーマンの日常を書いています。

狂気と熱狂が生み出した悲劇 ラリーが最も盛り上がった時代

現在の世界ラリー選手権(WRC)では、今年からトヨタが復活してフォード、ヒュンダイシトロエンと競い合っています。個人的にはラリーは面白くなくなった気がして見ていないのですが、かつては熱狂を生む狂気の祭典だった時代がありました。危険な香りがプンプンする、熱病のようにうなされた時代です。
 
 

WRCの開催

世界各地でバラバラに行われていたラリーが組織化され、1973年にWRCが始まりました。改造した市販車で公道を走るレースですが、12ヶ月間に400台以上製造された車が出場できました。つまりレース専用のスペシャルカーは、排除されたのです。
 
ところがイタリアのランチア社は、ランチアストラトスというラリー専用車を作り、無理やり400台製造してレースに出ると、あっという間に優勝をさらいました。ここから市販車でのレースだったラリーは、事実上スペシャルカーでのレースに変貌します。
※1974年に圧倒的強さでタイトルを獲ったランチアストラトス

グループBの制定

さまざまな自動車レースの規定が定められ、ラリーはグループBというカテゴリーの車だけが出場できるようになりました。200台以上製造した車が出場可能で、これまでよりも多くのメーカーが参加しやすくなりました。
 
1983年からグループBが施行されると、飛躍的な進化が始まります。そしてレース専用のスペシャルカーを公道で全速力で走らせるというレースに、人気も爆発しました。サーキットでスペシャルカーを走らせるグループAを遥かに凌ぎ、F1と並ぶ人気レースになっていきます。
 

4WDの出現

四輪駆動を意味する4WDは、工事車両などに使われる駆動方式でした。これをルノーが採用すると、悪路や公道を走るラリーでは大きな強みになりました。弱点は二輪駆動より重くなることで、各メーカーはエンジンのパワーアップにかかります。
 
アウディ・クワトロは4WDを備えた高出力を実現し、あっという間に王座に着きました。クワトロの出現は、もはや4WDでなければラリーを戦えないという状況を生み出します。
アウディ・クワトロ

魔改造の始まり

市販車ベースのはずのグループBですが、各メーカーは重いボディを軽くするため、ケプラー繊維やプラスチックを多用して市販車と同じ形のボディを作ってレースで使用しました。もはや見た目は市販車と同じだけど、中身は全く別物の車でレースが行われるようになります。
 
さらにF1でダウンフォースの効果が証明されると、グループBでもダウンフォースを得るためにウイングなどのエアロパーツがつけられるようになり、形状はもはや戦闘機のようになっていきました。
※暴走族ではありません。空力を計算してこのようなパーツがつけられました。

人間が制御できないマシン

魔改造の極致は、ランチア社が投入したデルタS4に行き着きます。車体をギリギリまで軽量化し、わずか890kgしかなく、エンジンはターボチャージャースーパーチャージャーを搭載することで600馬力を実現しました。現在ならNISMOスカイラインGT-Rのパワーはそのままにして、車重を半分にしたようなマシンです。
※怪物マシンと化したランチア・デルタS4
ランチア・チームの監督チェザーレ・フィオリオによれば、デルタS4の性能を使い切れたのはエースドライバーのヘンリ・トイヴォネンだけだと言いますが、トイヴォネンは
 
「コースにとどまるだけで精一杯。運転していて気が変になりそうだ」
 
と語っています。もはやグループBは、人が操れる限度を超えていました。現在ならハイテクにより、トラクションコントロールやアクティブサスペンションで車体を制御できるでしょう。しかし当時はハイテクどころかパワステすらない時代なのです。
※ヘンリ・トイヴォネン

安全性の問題

プラスチックやケプラー繊維のボディをハーフパイプで作ったフレームに乗せたグループBは、ドライバーの安全性が軽視されていました。安全性より速さが求められ、マシンはどんどん危険になっていきます。
 
さらに公道のコースには、ギャラリーが溢れていました。手に触れられるほどの距離で、モンスターのようなレースカーの疾走は強烈な快感をギャラリーに与え、大勢の人がコースに溢れるようになります。
※こういう光景が頻繁に見られました。
ドライバーは制御が困難なマシンのアクセルを全開にしつつ、人の間を縫うように走り抜けます。80年代半ばには、いつどこで大事故が起こってもおかしくない状況になっていました。
 

相次いだ事故

85年の第3戦で、ランチアが木に激突してドライバーが死亡する事故が起こりました。さらに第8戦ではプジョーに乗るアリ・バタネンが直線で大クラッシュを起こし、再起不能かとまで言われました。しかし相次ぐショッキングな事故にも関わらず、規制などはされませんでした。
 
86年に入ると、第3戦でフォードがコース上の観客を避けようとしてコントロールを失い、そのまま観客の列に突っ込んで3人が死亡、40名以上の重軽傷者を出す大惨事が起こりました。各メーカーは主催者側が観客を整理できていなかったために起きた事故として、主催者に改善を求めました。
 
しかし問題なのは、コントロールできないほど異常なパワーを持ったマシンにもあることは明らかでした。それでもメーカーが過激な競争を続けたのは、熱狂するファンの後押しがあったからです。観客は命の危険を顧みずにコースに押し寄せ、可能な限り近くでマシンが走り去るのを見ようとしました。
 
そして第5戦で、ランチア・デルタS4に乗るヘンリ・トイヴォネンがコーナーでコースアウトし、崖から落ちて死亡しました。これを受けてFISAは、わずか2日の会議でグループBの廃止を決めました。こうしてグループBは歴史から姿を消しました。
※トイヴォネンのランチア・デルタは、フレームを除いて全て焼けました。

まとめ

メーカーとドライバーが速さを求め、その姿に観客が酔うのがレースですが、過激すぎて安全性に対する配慮が少なすぎていたようです。WRCはレギュレーションを変えながら現在に至りますが、グループBの時代ほどの人気を得ることはできていません。
 
速さは麻薬で、どんなに危険を犯しても手に入れたい衝動がつきまとうようです。当時の映像を見ても、左右に揺れながら走るマシンは明らかにパワーを持て余していて、ゾッとする迫力で走っています。この後、道無き道を走り、怪我人と死者を出しながら大陸を縦断するパリ・ダカール・ラリーが人気を博しますが、ラリーは危険な匂いが強いほど人を惹きつけるのかもしれません。