40代サラリーマンの日記

わたくし、40代のサラリーマンの日常を書いています。

日本テニス協会が変わった日 /改革の英断と次の飛躍へ

世界ランキング4位という輝かしい実績を残した伊達公子は、引退と同時に子供テニススクールの重要性を痛感していました。海外の強豪のほとんどは、幼年期に才能を見出されて英才教育を受けています。日本では子供がテニスに触れる機会が少なく、才能を発掘する場がありません。「カモン・キッズテニス」は、伊達にとって日本テニスの未来を見据えた重要な企画でした。しかし日本テニス協会は、協力を求める伊達にあっさりとノーを突きつけました。
日本テニス協会名誉会長の眞子内親王

日本テニス協会の役割

1922年に「日本庭球協会」として発足したテニス協会は、日本のテニス大会を統括してきました。テニスが貴族のスポーツだったことから、皇室関係者にもテニスに熱心な方が多く、日本テニス協会と古くから親交がありました。
ウインブルドンでベスト4に入った日本人、清水善造
伊達の子供向けテニス教室の提案を聞いたある役員は、伊達にこう言い放ったといいます。我々の仕事は宮家の方々のお相手であり、子供に教えることではない。伊達は深く失望し、単独でスポンサーを募りながら全国を回って小学生以下の子供を中心にテニスを教えて全国を巡ります。
 

テニスブームの終焉

1990年代前半は、テニスブームともいえる状態でした。チケットが売り切れる大会が多くあり、会場はファンの熱気で覆われていました。しかし伊達公子や松岡修造といった人気選手が引退すると、ファンの足は急速に遠のいていきました。
※96年ウインブルドン準決勝に挑む伊達とグラフ
ウインブルドンベスト8に進出した松岡修造
特に男子は深刻でした。女子は伊達公子に続いて杉山愛や遠藤愛(まな)などが台頭してきていましたが、男子は松岡修造に続く選手が現れていませんでした。日本テニス協会は、テニスブームが起こったのではなく、松岡や伊達などワールドクラスで戦う選手のブームだったと痛感します。かつて数万人が炎天下の中で熱狂した東レ・パンパシフィックオープン、伊達がグラフを下して会場が破裂せんばかりの興奮に満ちたフェド杯でも、閑古鳥が鳴く有様でした。
 

改革の決断

改革が難しいのは、改革によって利益を得る人が見えにくいのに対し、不利益を被る人はハッキリしていることです。ワールドクラスの選手を育てるための改革を始めるとなると、伊達に宮家のお相手だけしてればいいと言い放つような役員の居場所は無くなります。しかし誰が得をするのか、改革を始める時点ではわかりません。だから改革は常に抵抗にあいますし、邪魔をする身内が現れます。
 
日本テニス協会内部で、どんな話があったのかは不明ですが、会長職を盛田正明氏に託すことが発表されました。テニス経験がなく、ビジネス畑の門外漢である盛田氏に、テニス協会は舵取りを任せたのです。これは大英断でした。盛田氏自身も、会長職の打診があった時には驚いたそうです。
※盛田正明氏(右)
ソニー創業者の盛田昭夫氏の弟であり、ベータマックスの開発やソニー・アメリカの会長、ソニー生命保険の会長を歴任した盛田正明氏が学生時代に打ち込んだのはバレーボールでした。
 

盛田正明氏とテニス

一方で盛田氏はテニスのファンでもありました。ジミー・コナーズモニカ・セレシュと個人的な親交があり、時間が許せばテニス大会を観戦しています。アメリカのテニス界ではちょっとした顔であり、熱心なファンとして知られていました。
※四大大会を通算8度制したジミー・コナーズ
ソニー生命時代には「ソニーライフ・カップ」を打ち上げ、アメリカと日本のプロ対抗戦を実現しました。生粋のテニスファンであり、経営のプロである盛田氏の手腕に日本テニス協会は、命運を託したわけです。
 

盛田正明氏の改革

国内の大会を改めて視察した盛田氏は、閑古鳥が鳴く会場に落胆します。欧米のテニス大会は家族連れか集い、朝からワクワクした空気に包まれているそうで、大会運営を根本から考える必要を感じました。さらにテニスが大好きなひとの意見だけを取り入れると、テニス村の内輪の盛り上がりに偏ると思い、サッカーの三浦知良氏など、テニス界以外の人の意見を募ります。
 
そして最大の問題は若手の育成です。世界のトッププロは、幼少時代から英才教育を受けています。なるべく早く才能を見つけ、良質な環境で才能を開花させる必要があります。盛田氏は旧知のIMGアカデミーに、日本の才能ある選手を留学させることを検討します。

 
IMGアカデミーは、アンドレ・アガシマリア・シャラポワを輩出したことで有名な、アメリカの名門アカデミーです。海外留学となると、親としては心配も多いので高校生を選抜して留学させることを検討しましたが、「それでは、あまりに遅すぎる」とアカデミー側から言われ、中学生の留学を中心に計画しました。
2003年、盛田氏は私財を基金にしてファンドを立ち上げ、盛田テニスファンドと名付けました。留学する際に、盛田ファンドの選手と名乗るのではなく、それまで所属していたテニスクラブを名乗るように盛田氏が勧めたため、盛田ファンドの知名度は低いままでした。盛田氏は自身のファンドが有名になるよりも、選手が飛躍した時に全国のクラブの指導者が自信を深めるように、元のクラブ名を名乗らせたのです。
 

錦織圭の躍進

盛田氏がテニス協会会長に就任した時に、テニスの素人に運営を託す危うさを指摘する声もありました。また盛田・テニス・ファンドも、素晴らしいこととしながらも長続きするのか不安視する声もありました。
しかし盛田ファンドによって留学した錦織圭の躍進によって、そんな声は一掃されました。盛田氏の先見性と、私財を投じてまで選手育成に掛けた情熱は絶賛され、国際的な評価が高まりました。盛田氏は自分が有名になっても仕方ないと、ご不満のようですが、盛田ファンドの留学を希望する選手は一気に増えました。
 

さらなる改革へ

2018年、日本テニス協会は、コーチの海外輸出を推進すると発表しました。優れた選手を輩出するには、国内に良いコーチがいることが重要です。日本はコーチの質は高いと自負しながら、国際的な潮流に遅れがちな面があり、それを解消するためにコーチに海外経験を積ませようというわけです。
 
錦織圭の活躍に湧いたテニス界は、決して安泰ではありません。男子は錦織圭に続く選手がなかなあ現れませんし、女子に至っては38歳でカムバックした伊達公子が、国内選手を総ナメにしてしまう衝撃に襲われました。勢いのある10代の選手が、オバちゃんのアンティークな技に翻弄される様子は、若手の自信を奪いかねない劇薬でした。これを超えなければ次の飛躍はないのです。日本のテニスが、今後どのような飛躍を遂げるか見守っていきたいと思います。



マイケル・ジャクソンが愛したローファー /G.H.BASSの魅力

私はローファーを一足も持っていません。足に合うローファーに出会ったことがないからです。唯一履けたのは、J.M.ウェストンの超タイトフィッティングで、お値段もすごければ足も痛いで、さっさと諦めました。今回はローファーの元祖と言われるG.H.BASS(バス)のお話です。とってもお安い革靴なんですよ。
 
 

歴史

ジョージ・ヘンリー・バスという人物が、片田舎の工場を買い取ったことからブランドが始まります。1876年にG.H.BASSと名前を変え、靴の製造を始めました。
 
 
第一次世界大戦では、アメリカ軍のパイロットブーツを納めるまでに成長し、南極探検隊のブーツなども手がけます。そして1950年代に、ウィージャンズと呼ばれるローファーを発表しました。つま先にも踵にも芯がなく、マッケイ製法で作られたこの靴はアイビーリーガー達に高い支持を得ました。60年代には日本でもアイビーブームの際に、ウィージャンズは大ヒットしています。
 
 
低価格で可能な限り良い靴を提供する方針のもと、現在では向上をアメリカ国外に移して展開しています。接着剤を使ったセメント製法が全盛の現在、今でも靴底を縫い付けて、わずか1万円代で提供する稀有なメーカーです。
 

マイケル・ジャクソンの靴

フローシャイムなども使用していたマイケル・ジャクソンですが、G.H.BASSが大好きだったようです。オールデンのような高級ブランドを、毎年のように全色買っていたと言われても驚かないマイケルですが、安価なG.H.BASSを愛用していたところに好感が持てますね。
※ヒット曲「ビリー・ジーン」でもBASSが使われました。
 
そもそもマイケルはお洒落なタイプではなく、ファッションとしての服や靴には関心が薄かったようです。しかしダンスのパフォーマンスに関わるとなると、とても繊細で注文か多かったようです。そんなマイケルがG.H.BASSのウィージャンズを愛用していたというのは興味深いですね。
 
 

靴の種類

ウィージャンズ:ローファー

G.H.BASSの看板モデルで、バスといえばこのローファーです。軽くて履きやすく、値段の安さから人気です。カラーバリエーションも多く、レディースモデルもあります。



ウィージャンズ:タッセル・ローファー

アメリカの弁護士などがよく履いている、タッセル付きのローファーも定番です。普通のローファーは学生っぽいと思う人に、こちらは人気ですね。



サドルシューズ
最近は見かけなくなったサドルシューズもあります。オールドアメリカンスタイルが好きな方には、たまらないスタイルです。



スエード・オクスフォード

ローファーが苦手な人には、コチラの方が良いでしょう。外羽なのにオクスフォード?という気もしますが、オクスフォードと表記されています。


他にも多くの種類があり、ブーツなども豊富な種類があります。しかし日本で売られているのは、上に挙げたものをよく見かけます。どれも1万円台で売られていて、手頃な価格になっています。

まとめ

長い間1万円台を維持していることを考えると、驚異的な企業努力を続けているのだと思います。60代の人に聞くと、70年代はリーガルの方が値段は安かったそうです。今ではリーガルより安く買えるのですから、驚くべきですね。


ここまで安い靴なので、特筆すべきような点はありません。しかし根強いファンが多いのも事実で、気楽に使えるのが魅力なのだと思います。普段履きの一足として、あっても困らない靴ですよ。

イギリス料理よりオランダ料理の方が不味いと主張する友人の話

このブログに「世界一まずいと言われるイギリス料理の世界」を掲載したところ、イギリスとオランダで働いた経験がある友人Fから「イギリスの料理がまずいと言っているのは甘え。オランダはもっと酷い」と言ってきました。オランダの料理のまずさを切々と訴えてきたので、今回はその話を書いてみたいと思います。
※友人Fのオランダ料理のイメージはこんな感じだそうです。
その友人がオランダにいたのは2000年頃で、急遽3ヶ月ほど行ってきたのだそうです。まずオランダは多様性の国だけあって、外国人に割と寛容だそうで「人は良い!それと思ったより勤勉」とのことです。
 

1.イギリスでは食事に困らない

友人Fによると、イギリスにいても食事に困った経験は少ないそうです。なぜならば
 
「イギリスには中華料理とインド料理があるから」
 
だそうで、結局イギリス料理はまずいのかという話になるのですが、「外食産業が発達しているイギリスなら、美味しい食事もみつけられる」のだそうです。「外食産業が未発達な国は悲惨」ということで、イギリスはましな方だと言います。
※ロンドンの中華料理店
 

2.オランダの外食

外食産業が発展していないオランダでは、基本的にお店の数が少ないのだそうです。そしてお店も「スーパーの材料を買ってきて、俺が作っても同じ味のレベル」の店も多く、高いお金を払って食べる価値がないと言います。

ある時、外国人旅行客なら良い店を知っているかもしれないと考え、話しかけたら隣国のベルギーに行くことを勧められたそうです。
 

3.オランダの食事

友人が言うには、オランダには美食という概念が存在しないそうです。食事に娯楽性はなく、ひたすら燃料補給のための行為だそうで、そのためバリエーションも少なく「オランダ人は、一週間同じものを平気で食べ続ける」と言っていました。
 
朝と昼は火を通したものを食べないそうで、朝はドーンとヨーグルトが出てくるのだそうです。ヨーグルトやチーズなどの乳製品は美味しいそうですが、毎日毎日食べていると飽きてくるのは当然です。しかしオランダ人は毎日毎日、同じ物を食べ続けています。
 
夕食は茹でたジャガイモに、茹でたソーセージに、キャベツの酢漬けが基本だそうで、これを毎日毎日食べても不満が出ないのがオランダ人だそうです。薄味でなんとも微妙な食べ物だそうで、2日目にはうんざりしたようです。
※夕飯が、毎日こんな感じだそうです。
彼は朝はオランダ流儀に従って乳製品を食べ、昼は屋台で生のニシン(これは美味しいそうです)とパン、またはバーガー・キングのハンバーガーを1000円ぐらい出して食べ、夜は自炊していたそうです。
 

4.オランダ料理とは

オランダの北部、西部、南部で伝統料理が違うそうです。とりあえず代表的な料理を並べてみます。
 
ハーリングはニシンの一種で、塩漬けにしたものを生で食べるそうです。塩抜きしているので塩辛さはなく、若干生臭いらしいので、一緒にピクルスなどと食べるそうです。友人が言うには屋台で食べるならこれが一番美味しいそうです。
 
 
(2)メトヴォルスト
挽肉を乾燥させて作ったソーセージで、独特の臭いがするそうです。そもそも新鮮な肉が手に入らなかったためにできたものなので、味に期待してはいけないとのことでした。しかし近年では、美味しいものも出てきているそうです。
 
 
(3)ビターバレン
コロッケです。サイズが大きくなると「クロケット」と呼ぶそうです。「店で食べても友人の家で食べても同じ味。なぜなら同じスーパーで冷凍のビターバレンを買ってきて揚げているから」とのことです。自家製ビターバレンを売っている店もあるそうです。
 
 
(4)フリッツ
フライドポテトのことで、「店によってはバケツで出てくる」そうです。ジャガイモが主食と言ってよいオランダでは、大量に食べるのは普通のようです。そして「たかがフライドポテトを奇跡的にまずく作る店がある」のだそうです。
 
 
(5)キベリン
白身魚のフライだそうです。上記のフリッツと一緒に頼めば、イギリスのフィッシュ&チップスになります。「店によって当たりハズレがある。ハズレの店で食べると、油臭さと生臭さを食べることになる」のだそうです。
 

5.落ち着いた友人F

いろいろ話していて落ち着いてくると、「案外、オランダ料理はまずいものばかりではないかも」と言い出しました。とにかく苦痛なのは、同じ物を延々と食べ続けるオランダ人の食習慣で、それにつきあわずに美味しい店を探していけば、案外楽しめるかもしれないと意見を変えてきました。しかし店が少ないので、美味しい店を見つけるのは初めての旅行では難しいだろうとも言っていました。
 

6.おまけ

オランダ人は噂通りケチというか倹約家で、金銭感覚に戸惑うことは多かったそうです。靴下に穴が空いても見えないから平気と履く人は多く、子供のズボンの膝に穴が空いたら、ポケットを剥がして膝に当てるのが常識のようになっているとか。ベルギーにバカンスに行くのが好きですが、彼らは全くお金を使わず「あいつらは二酸化炭素しか落としていかない」とベルギー人に言われているようです。

オランダでは服を買うのも困るそうです。まずオランダ人はデカイ。成人男性の平均身長が180cmを軽く超えていて、190cmの人なら大量にいるオランダでは服のサイズもどうしても大きめになります。さらに服のセンスが古く、中には「いまどき、こんな服はどこで売ってるんだ?」と言いたくなる格好の人も頻繁に見かけるそうです。
※オランダ人の平均身長は世界一です。

8.まとめ

友人Fによると、オランダは季候も良く人も良いので住みやすい国だったそうです。ただし食事と服と娯楽に疎く、同じ食事をして同じ服を着て、サッカーやテニスで余暇を過ごすみたいな質素な生活が基本だそうです。
 
食事はガイドブックに載っている店は期待できず、スーパーで買った食材を素人が料理しているみたいな店もあるので、おいしいものを食べたければ、足を使って探すしかないようです。

ただし友人Fが行った2000年頃からは、オランダも変わってきているので情報をお持ちの方がいたら教えてください。


ニュース番組はどうしておかしくなったのか

報道ステーションでメインキャスターを務める富川悠太アナウンサーが、珍問答を繰り返して批判を浴びたり、ニュース23やZEROでも似たような声が上がることがあります。どこも似たような政府批判を繰り返し、紋切り型の報道番組が増えました。
 
この紋切り型は、報道番組としては異例の視聴率を誇ったテレビ朝日ニュースステーション(1985年〜04年)の模倣が、今でも続いている面にあると思います。
ニュースステーションのメインキャスターだった久米宏

ニュースステーションは画期的だった

(1)わかりやすいニュース
解説VTRやパネル、フィリップを多用して「中学生にもわかるニュース」を目指しました。現場映像を流し、口頭でニュースを読み上げるばかりの報道番組が主流の中で、これは画期的なスタイルでした。ニュースステーションのニュースは、わかりやすいことが多くの視聴者を引きつけました。
※現在も使われるこれらフィリップボードを多用したのがニュースステーションでした。
 
(2)女子アナの積極登用
複数の女子アナを積極的に登用しました。当時、女子アナは甲高い声で喋っていましたが、久米宏氏は可能な限り低い声でニュースを読むように依頼し、女子アナに重厚さを持たせました。当初は、何人もの女子アナがいましたが、知的で低音がシャープな小宮悦子氏が、サブキャスターの中心となりました。男性中心だった報道番組の景色を変えたと言われます。
小宮悦子さんは男女問わず人気がありました。
 
(3)キャスターが私見を言う
ニュースの後に久米宏氏が、庶民目線の私見を入れるのが特徴でした。堅苦しいニュースの中に、ニヤリとしてしまうコメントやボヤキで何度も話題になります。例えばレーガン米大統領中曽根康弘総理の初会談で、互いを「ロン」「ヤス」と呼び合うことにしたというニュースを、久米宏氏はこんな風に締めくくりました。
 
「初めて会って、すぐに意気投合しても、互いに名前で呼び会えるんですかね? 私は小宮(悦子)と10年以上一緒に仕事をしていますが、未だに悦子・宏とは呼びあえません」
 
ロンヤス会談を皮肉った痛烈な一言として、他の媒体でも話題になりました。
 
(4)出演者の趣味嗜好をそのまま出していた
キャスター、サブキャスター、解説員、ゲストまで、自分の好みをそのまま出していました。特にスポーツコーナーでは顕著で、プロ野球の結果は、それぞれがひいきのチームの結果に一喜一憂していました。
 
久米宏氏がゲストと対談する際は、報道番組らしからぬ話題でも取り入れていました。極端な例としては、漫画家の黒鉄ヒロシ氏は、若い頃の自慰行為の方法を楽しそうに語っていたことがあります。
 

ニュースステーションは雛形になった

上記の4つの特徴は、今の報道番組に共通します。つまり今の報道番組は、ニュースステーションの模倣と言って良いかもしれません。報道番組のワイドショー化とも呼ばれましたが、30年以上前に始まったニュースステーションの手法が、今でも続いていることに驚かされます。
 
そして困ったことに、久米宏氏のキャラクターだからこそ成り立った部分まで、真似をする人達が出てきました。
 

そして模倣が迷走する

久米宏氏は、難しいことを言うわけでもなく、骨太の議論を展開するわけでもなく、ふと疑問に思うことや、わかりにくいことを拾い上げるのが巧みでした。しかし今では、何かうまい事を言わないといけないと思い込んだキャスターが、無理に言葉を紡ぎだすことがあります。
 
報道ステーション古舘伊知郎氏がその典型で、無理に話すのでギクシャクしていましたし、明らかにニュースを理解しないまま話していることもありました。それでは聞いている方も心苦しくなりますし、何より意味がわからなくなります。
※テレビをつけたら、宗教番組でもやっているのかと思いました。。。
最悪なのは、久米氏が時々見せた傲慢さを勘違いして受け取った人がいることです。久米氏は好き嫌いがハッキリと出るタイプで、例えば元東京銀行勤務の解説員、若林正人さんへの言葉や態度は、明らかに嫌いな人に対するもので、バカにしたような言い方を再三繰り返していました。こんなことを真似する必要はないのですが、なぜか偉ぶった態度をとる残念な報道番組を見かけます。
 

まとめ

ニュースステーションは、当時は画期的な番組でした。わかりやすく、反権力が明確で、出演者が個性を見せる、これまでにない報道番組でした。その話題性の高さゆえに、報道の中立性に疑問を持たれたりもしました。ニュースステーションの視聴率が高いエリアでは、自民党が選挙で苦戦するというデータもあったほどです。

 

ニュースステーションの功罪は別途検証が必要ですが、報道番組としては異例の視聴率を誇り、一時期は「テレビ朝日を支えているのは、ドラえもん久米宏」と言われるほどテレビ朝日の看板番組になりました。その成功例を真似るのはわかりますが、どこも同じようなことを始めたので紋切り型になってしまい、さらに悪い面まで真似てしまうのでは面白くもなくなります。

そもそも報道番組に必要なのは何なのか?第四の権力と言われるメディアが、その権力を正しく行使しているのか?そういった基本的なところから見直さないと、ますますテレビの報道番組を見る人が減るような気がします。



未来を知りたければSFを見よう /鉄腕アトムや攻殻機動隊が揺るがす未来

かつて報道番組「ニュースステーション」で、東大に合格した男子学生が「将来の夢はガンダムを作ることです」と答えたのを受けて、久米宏氏は「最近の男子学生はレベルが下がっている」と嘆きました。残念ながら、久米宏氏は科学技術の発展にSFが与えた影響をご存じなかったようです。



ジョージ・ルーカスの主張

映画「スターウォーズ」の制作者として知られるジョージ・ルーカスは、SFこそ人類にとって最も重要なジャンルの1つなのに、それを理解している人が少ないと嘆いていました。ルーカスは問いかけます。「アポロ11号の乗組員の宇宙服が、なぜ映画『月世界制服』に出てきた宇宙服にそっくりだったのだろうか?」

ジョージ・ルーカス


「月世界制服」は1950年のアメリカ映画で、月ロケットを開発した物理学者とその仲間が、月を冒険する物語です。ルーカスはアポロ11号の宇宙服が「月世界制服」とそっくりだった理由を2つ挙げています。

※映画「月世界制服」


1.「月世界制服」のスタッフが、当時の最新の科学技術を研究して、宇宙服のデザインをしたから。
2.「月世界制服」を見て感動した子供達が、NASAに就職してアポロ計画に携わったから。

ルーカスは、優れたSFは感動を与えて現実世界に強い影響を与えると言います。SFは未来をデザインし、科学技術の向かう先を変える力さえあるというわけです。

二足歩行ロボットへのこだわり

日本ではホンダのアシモに限らず、二足歩行ロボットの開発が多く見られます。アメリカは四足歩行も研究していますが、日本では「アトムを作ろう」という掛け声のもと、二足歩行ロボットに夢を託す技術者が多くいるのです。漫画「鉄腕アトム」の影響は、ロボット工学に及んでいます。

※こちらは「エイリアン2」のクレーンロボットの影響も感じます。


かつてのソニーのヒット商品「アイボ」も、当初は「アトムを作ろう」という企画でした。しかし二足歩行は時期尚早とされ、まずは四足歩行となったのです。二足歩行は絶えずバランスを取り続けなければならず、不安定で歩く動作が複雑すぎるという問題があります。しかしそれでも二足歩行を諦めないのは、アトムを見て育った世代から「機動戦士ガンダム」を見て育った世代にロボットの研究が引き継がれているからです。

ソニーのアイボ


久米宏氏は「ガンダムを作るのが夢」と語る学生に失望していましたが、未来を作るのは子供のような無邪気さを持ち続け、少年のような夢を抱いたまま研究に没頭する科学者や技術者なのです。


攻殻機動隊が兵器を変える

攻殻機動隊」のコミックが発売されたのは1991年で、ほとんどの人がインターネットを知らない時代でした。そんな時代に脳を直接インターネットに接続し、ハッキングの応酬が繰り広げられる物語は、あまりに前衛的でした。


脳を直接インターネットにつないで、web上のアーカイブを自分の記憶のように使う研究も進んでいますが、攻殻機動隊の技術の中で最も研究が進んでいるのは光学迷彩でしょう。マントのようなものを被った草薙素子が、ビルから落下しながら周囲の景色に溶け込むように消えていくシークエンスは、あちこちで引用されました。

光学迷彩を使う草薙素子


現在は有機ELパネルを設置した戦車が、周囲の景色を映し出して景色に溶け込む実験が行われています。また光を屈折させて、透明になったかのように見えるマントも度々発表され、アメリカのメディアでも攻殻機動隊の影響が語られています。すでにいくつかの軍事企業は、この革新的なカモフラージュ技術に莫大な投資をしていると言われます。ステルス技術の次は光学迷彩だというのは、今や当然のことのように語られているのです。

※こちらは消えるベンツの実験

 

まとめ

ジョージ・ルーカスは「私を始めて宇宙に連れて行ったのはキューブリックだった」と語り、アポロ11号からの宇宙の様子が、前年に公開された映画「2001年宇宙の旅」にそっくりだったために子供心に興奮したことを語っています。こういった興奮が未来を作り、進歩の道筋に影響を与えます。

今まさに最先端の分野で研究をしている人達が、強い影響を受けたSFを知れば未来の一端を垣間見ることができます。火星にチャンバラを持ち込むのがSFというわけではありませんし、子供の妄想でもありません。今そこにある未来は、すでにSFに描かれた未来なのです。

服好きな人=お洒落な人ではないという話

時々、私なんぞに「お洒落ですね」と言ってくださる人がいるのですが、私は断じてお洒落な人ではありません。単に服が好きなだけなのです。お洒落な人というのは、鍛え方が違うと思うんです。
今回はこの混同されやすく、しかし本質的には全く違うと思うお洒落と服好き、さらに流行が好きな人たちについて書いてみようと思います。
 

服が好きな人たち

私を含めて服が好きな人は多くいるので、雑誌不況の現在でもファッション雑誌が売られ、ネットにはファッション情報が掲載されています。私が服が好きなのは、ちょっとした変身願望のような一面があるからです。服によって自分の印象が変わり、普段とは気分も変わるからです。
 
スポーツウェアを着ただけで、逞しくなった気分になる人がいますが、それと似たようなものです。私が蝶ネクタイをしたりワークウェアを着たり、アウトドアウェアを着たりするのは、こういった変化が楽しんですね。
 
さらに言うとモノに興味を惹かれる性格なので、どのような目的で、どのようにして作られたのかを知るとワクワクしてきます。これは単に物体としての興味が強く、お洒落とは全く無縁の興味です。
 
この服好きタイプは私以外にも多くいて、大抵の人がファッションを楽しんでいます。
 

流行好きの人たち

流行を追いかける人は少なくなりましたが、今でも確実に存在します。雑誌の宣伝文句をそのまま語る人達で、中には流行に乗せられていることに気がついていない場合もあります。もっとも経済に貢献しているのはこのタイプの方々で、流行が変わると新たな服を買うので、洋服屋さんにとって優良な顧客でもあります。
※80年代に流行したファッション
メディアが広告主のために育てたいのもこのタイプの人達で、だから熱心に流行を報じて、少し前に流行ったものを着ている人は格好悪いと脅します。流行を追うのに疲れたという人もいますが、流行の先端に身を置くのは時代の変化を感じる意味で、刺激的で面白いことだと思います。
 

お洒落な人たち

何をもってお洒落かは議論の対象になるでしょうが、私はこのように考えています。
 
お洒落な人とは、時と場所を選んで、どのように見られたいかという意思を持つ人。自分が何者であるかを知っている人。
 
小難しい話に聞こえるかもしれませんが、例えば組織のリーダーとして振る舞う時には、誠実さや力強い印象を与える服を選び、知人のパーティを手伝うなら決して主役より目立つような服装をせず、その場に自然と溶け込める服を選ぶ人です。格好良いけど一見して何が格好良いのか分からず、服が目立つことのない着こなしをする人は、かなりのお洒落だと思います。
※歴史に名を残すダンディな男ブランメル
これは服の値段やブランド、流行とは全く無関係で、むしろ服には注意がいかないので気にすることがありません。この手の人は服を肌のように着こなしていて、真似ようにも簡単にはできません。こういう人は確実に存在しますが、気づかれないことが多いのでお洒落とは思われにくいようです。
 
このタイプの人は自分をよく知っていますから、無理な背伸びをしませんし、流行を追いかけることもしません。しかし時代の空気に合わせたり、自分の老化などによる変化には、注意深く服を合わせていきます。
 

まとめ

このように、お洒落な人と服好きでは全く違ったタイプの人だと思います。芸能人にお洒落な人が多いと言われますが、芸能人は見られるのが仕事なので自分がどのように見られているかを意識する人が多く、そしてどのように見られたいかという自身のイメージを事務所の人などと話し合っているので、自然とお洒落になっていく人が多いのだと思います。もっとも俳優の松坂桃李さんのように「仕事で格好つけなきゃいけないのに、なんでプライベートまで格好つけなきゃいけないんですか?」と、普段は上下フリースがメインの人もいますから、一概に芸能人がお洒落とは限りません。
 
それと「どう見られたいか」「自分は何者なのか」という問いかけを、どれほどの期間やってきたかによって差がでます。40歳を過ぎてから考え出した人と20代のうちから意識していた人では、やはり経験の差が出てきます。こう考えるとお洒落は一種の修行のような感じもしますので、私は周囲のお洒落な方々には頭が下がる想いなのです。

誰にでも似合うダッフルコートのすすめ

先日、ある方とダッフルコートについてあれこれ話していました。一般的なイメージとして、ダッフルコートは学生が着る可愛らしいコートですが、それはダッフルコートの一面に過ぎません。無骨で粗野で、働く男や戦う男のコートでもあります。

1.ダッフルコートの起源

ダッフルコートの起源は諸説ありますが、ベルギーのアントワープ州にあるダッフルという町の生地にあります。15世紀には各地に輸出し、羊毛の町として知られていました。この生地を使って北欧の漁師達が仕事用のコートを作り、それがイギリスに持ち込まれます。
 

2.イギリスで生まれたダッフルコート

1887年、イギリスのアウターブランド、ジョン・パートリッジがダッフルコートをデザインします。今日のダッフルコートとはかなり違い、着丈はピーコートと同じぐらいです。しかし広い身頃に木製のトグルがついていて、今日のダッフルコートの特徴が見られます。そして丈夫なコートを探していたイギリス海軍が、水兵用にダッフルコートを発注しました。
イギリス海軍の水兵たち
第一次大戦から第二次大戦のイギリス海軍で、ダッフルコートは重宝されます。極寒の北海などでは、コートの上から着るコートとして使われました。そのため身頃がとても広く、袖も極端に太くなっています。ボタンではなくトグルを採用したことで、手袋を外さずに前を閉めることができるのもポイントでした。
 
陸軍のバーナード・モンゴメリー将軍もダッフルコートが好きで、あちこちで着ています。そのためモンゴメリー将軍の愛称から、ダッフルコートのことをモンティ・コートと呼ぶようになりました。さらにイギリス特殊空挺部隊SAS)を創設したデビッド・スターリング大佐もダッフルコートを好み、砂漠で着用する姿が多くの写真に残っています。
北アフリカでダッフルコートを着るデヴィッド・スターリング大佐

3.軍から民間へ

第二次大戦が終わると、海軍の兵士は普段着としてダッフルコートを町に持ち込みました。さらに軍が余剰品などを販売し、ダッフルコートが安く売られるようになりました。お金のない若者は、防寒具としてダッフルコートを買い、街着として定着していきます。
※映画「愛の狩人」の一コマ
生地は雨に強く(なにせ海軍用ですし)、幅広の作りはサイズを気にせずに誰でも着ることが可能でした。メンズ・レディースを選ばないシンプルなデザインであり、徹底したシンプルな実用性が人気で、カジュアルな服装からタキシードに合わせる人も出てきます。
 
安価でシンプルで実用的なダッフルコートは、学生にも人気でした。士官学校の学生は、軍人だった親のお下がりのダッフルコートを着ました。そしてさまざまなブランドが、お洒落なダッフルコートを作りはじめます。50年代から60年代にかけて、ダッフルコートは人気アイテムになりました。
※ダッフルコートにスーツを合わせた例

4.お洒落なダッフルコート

一枚布で作られていたダッフルコートに、裏地がとりつけられるなど街着として洗練されていきますが、見た目の大きな変化はトグルの変更でしょう。
 
Gloverall(グローバーオール)社は、麻紐を皮に、木のトグルをホーントグルに変更しました。近年ではプラスチックが主流ですが、水牛の角で作られたホーントグルは今でも稀に見かけます。この変更はダッフルコートの粗野な雰囲気を一変させ、軍服のイメージをぬぐい去りました。
 
さらに色味も変わってきます。イギリス海軍ではキャメルが定番でしたが、街着になってからはさまざまな色が展開されています。
 

5.まとめ

ダッフルコートは漁師の作業着から軍服、そして街着へと変化してきました。そのためさまざまな顔を持ち、シェイプや素材、色など豊富なバリエーションがあります。
 
オートバイに乗るワイルドなファッションから、スーツの防寒着として、セーターなどに合わせた普段着など、男女や年齢を問わずに着ることができます。これだけのバリエーションがあると、ダッフルコートが似合わない人を探すのが難しいほどです。
 
どうも日本では学生服のイメージが強いのですが、それはダッフルコートが持つ顔の一つに過ぎません。寒い冬に向けて、一着持っていても損はしない万能コートです。
 
 

 

おまけ(人気のブランド)

 

(1)グローバーオール

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1951年創業のイギリスのブランドで、今やダッフルコートの定番ブランドです。

(2)グレンフェル

 

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1922年に創業したイギリスのブランドです。医師で探検家のウィルフレッド・グレンフェルがグレンフェル・クロスと呼ばれる生地を使って始めました。

この他、オリジナル・モンゴメリーナイジェル・ケーボンなど、さまざまなブランドがあります。